2014年8月8日金曜日

朝日新聞が30年以上放置していた吉田清冶のウソ証言全経過!

朝日新聞が取り消した、吉田清冶の「慰安婦狩り」証言の記事をピックアップしてみました。
朝日新聞によると、吉田証言に関する記事は1980年代から1990年代にかけてで、計16本に及んでいます。これらが、「慰安婦」の募集、移送などの強制性を認めた「河野談話」(1993年)、さらには国連人権人会の報告や米国の対日非難決議に大きな影響を与えたのは間違いありません。
河野談話発出当時の首相官邸事務方トップの石原信雄元官房副長官は「大きな影響があった。被害者団体は強制連行をされたものと思い込んで日本政府に謝罪と補償を求めた」(読売テレビの番組)と吉田証言の影響の大きさを述べています。

◇吉田清冶が「慰安婦狩り」をまとめて証言したのは、1983年(昭和58)の『私の戦争犯罪』(三一書房)です。この中で、先の大戦中に日本軍が朝鮮の女性を強制連行し慰安婦にした、自らも軍命令で済州島で慰安婦にするため朝鮮人女性を強制連行した証言しています1989年には韓国語訳が出版された。これより早く、1977年(昭和52の『朝鮮人慰安婦と日本人 元下関労報動員部長の手記』(新人物往来社)を出版していますが、こちらは朝鮮半島での男子労務者の「狩り出し」と下関での朝鮮人慰安婦調達の体験談が中心です。

ところが「私の戦争犯罪」の一年前に朝日新聞は、吉田清治の「慰安婦」ねつ造を大々的に取り上げています。1982年(昭和57)9月2日付大阪本社版朝刊です。内容は、戦時中、「山口県労務法国会下関支部」の動員部長だったという吉田清治氏が9月1日夜、大阪市内で催された集会で〈悲惨な『従軍慰安婦狩り』の実態を証言した〉というものです。
 
☆それから三カ月後、朝日新聞東京は1983年(昭和58)11月10日に「ひと」欄で吉田清治を取り上げています。〈「国家による人狩り、としかいいいようのない徴用が、わずか三十数年で、歴史のヤミに葬られようとしている。戦争責任を明確にしない民族は、再び同じ過ちを繰り返すのではないでしょうか」〉という吉田清治の言葉で締めくくっています。ただ、これには「慰安婦狩り」の話は出ていません。

1989年(平成元) 吉田証言を読んだ済州島新聞の記者が、現地調査をもとに「慰安婦狩りは事実無根」「吉田の主張は虚偽」と報じました。

 1990年代に入って、朝日新聞の強制連行報道に拍車がかかります。
☆1990年(平成2)12月14日 東京夕刊 (人きのうきょう)「梨花女子大の尹貞玉教授 従軍慰安婦の事実究明を」〈もう1つの「強制連行」の事実究明を日本側に呼び掛けた〉

☆「朝鮮人強制連行の名簿、知事の命令で償却 元動員部長が証言」
1990(平成2).06.19 大阪朝刊 26頁 2社 写図有  
 〈戦前、山口県労務報国会下関支部動員部長として、「徴用」名目で多数の朝鮮人を強制連行した吉田清治さん(76)=千葉県在住=が話した。「名簿などの関係書類をドラム缶で焼き、灰はスコップで海に捨てました」。敗戦直後の8月下旬のことだった、という。
 内務次官の指示に基づき、「記念写真も含め、朝鮮人に関する資料をすべて焼却せよ」という県知事の緊急命令書が、警察署長あてに届いた。吉田さんは丸4日かけて、下関署の裏で、同支部にあった徴用関係書類をドラム缶で焼いた。6千-1万人分の名簿も含まれていた。
 「強制連行の実態が明らかになると、関係者は戦犯になりかねない。だから、米軍が来る前に、証拠隠滅を図ったわけです。当時は、自分もそれが当然と思っていました」
 労務報国会は、戦時体制の中で、炭鉱などの人手不足を解消するため、昭和17年に全国各県の警察単位につくられ、労務動員を担当した。日本国内には徴用できる人材が少なく、朝鮮人の強制連行が主な仕事だった。吉田さんは敗戦まで約3年間、強制連行の実務責任者として7、8回、朝鮮半島に渡った。
 地元警察署員らが集落を包囲したあと、吉田さんらが家の中や畑で作業中の朝鮮人男性を強引に引きずり出し、次々と護送車に乗せた。抵抗すれば木刀で殴り倒した。数百人を下関に連行した後、貨物列車に乗せ、炭鉱などに送り込んだ。
 「自分は戦争犯罪人。その罪と責任は死んでも消えないでしょう。強制連行の官庁資料はもはやないと思うが、企業や市町村レベルで、少しでも手がかりがないか、探すべきです」
 吉田さんは戦後、炭鉱などで酷使されて死んだ韓国人の遺骨返還運動や、6年前には韓国天安市の「望郷の丘」に私費で「日本人の謝罪碑」を建立するなど、自らの戦争責任を問い続けている。
 「同じやり方で多くの朝鮮人女性を従軍慰安婦として連れ去ったこともあります。当時の私は、徴用の鬼、といわれて誇りに思っていました。朝鮮民族の人たちには、死後も謝罪し続けなければならないという気持ちです。到底許されるとは思っていませんが」〉
 <2014年8月5日朝刊 慰安婦問題を考える>
 ◇読者のみなさまへ
 吉田清治氏が済州島で慰安婦を強制連行したとする証言は虚偽だと判断し、記事を取り消します。当時、虚偽の証言を見抜けませんでした。済州島を再取材しましたが、証言を裏付ける話は得られませんでした。研究者への取材でも証言の核心部分についての矛盾がいくつも明らかになりました。

☆従軍慰安婦 加害者側の証言(女たちの太平洋戦争) 1991年5月22日 大阪朝刊 5頁 声  
 〈「女たちの太平洋戦争」で韓国から寄せられた投稿にある、“挺身隊員(ていしんたいいん)として連行された”女性への言及。一方、多数の朝鮮人を強制連行した側からの証言がある。1942年(昭和17年)、朝鮮人の徴用を目的に発足した「山口県労務報国会下関支部」の動員部長になり、それから3年間、朝鮮人約6000人を強制連行した吉田清治さん(77)=千葉県我孫子市=である。(編集委員・井上裕雅)
 「手をくだした側から従軍慰安婦について証言できるのはもう私1人しかいないかもしれない。政府は『民間の業者がやったこと』と言うがそんなことはない。とはいえ、その実態は歴史から消えている。慰安婦だった人は過去を知られたくないのは当然で、日本人の側が、犯した罪を証言し、記録しておく義務がある。沖縄決戦についての慰安婦の実態もみえてこない。朝鮮から沖縄へ慰安婦として強制連行された人たちは数千人いたと推定できる」と吉田さんは言い、現在、当時のことを記録に残そうと書き続けている。
 吉田さんは自著「私の戦争犯罪--朝鮮人強制連行」(三一書房)などで自己の戦争犯罪を問い続ける。86年8月、大阪で開かれた「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳(は)せ、心に刻む集会」に招かれ、従軍慰安婦について大要次のように証言した。(以下は、「アジアの声 侵略戦争への告発」=戦争犠牲者を心に刻む会編 東方出版=から)
 私が今日、最も恥ずべきこと、心を痛めている問題の1つは、従軍慰安婦を950人強制連行したことです。従軍慰安婦という制度は、日本軍がアジア各地、太平洋諸島へ侵略したとき、その駐留陸・海軍軍人たちの性的な相手をさせるための女性であったのです。占領直後の前線に、売春組織を陸・海軍の指揮のもと、直接の援助のもとに設置したというのは世界史上でないそうです。もちろん、あってはなりません。これが太平洋戦争における日本陸・海軍の最も大きな罪だと私は信じております。この婦女子の韓国・朝鮮人の従軍慰安婦の徴用のやり方は、私たち実行者が10人か15人、山口県から朝鮮半島に出張し、その道(どう)の警察部を中心にして総督府の警察官50人か100人を動員します。そして警察官の護送トラックを5台から10台準備して、計画通りに村を包囲し、突然、若い女性を全部道路に追い出し、包囲します。そして従軍慰安婦として使えそうな若い女性を強制的に、というか事実は、皆、木剣を持っていましたから殴る蹴(け)るの暴力によってトラックに詰め込み、村中がパニックになっている中を、1つの村から3人、5人、あるいは10人と連行していきます。そして直ちに主要都市の警察署の留置場に入れておいて、3日か5日の間に、予定の100人、あるいは200人の人数をそろえて、朝鮮の鉄道で釜山まで運び、釜山から関釜連絡船で下関へ運んだのです。下関では74部隊といって陸軍の部隊がありましたが、そこの営庭で前線から受け取りにきている軍属に渡します。そしてご用船で中国、あるいは南方へ送るという業務を3年間やっておりました。
 10万とも20万ともいわれる従軍慰安婦は、敗戦後、解放されてから郷里に1人もお帰りになってないのです。連合軍は中国、その他の占領地でこの女性たちを解放し、朝鮮半島、あるいは日本へ送還したのですが、その女性たちはすべて郷里に帰らず、各地で名前を変えて生活され、今日に至っております。
 今日、朝鮮半島、あるいは日本列島の中で過ごしていらっしゃる方、10万人のうち、もう半数は犠牲になってお亡くなりかと想像されますが、まだ数万の元従軍慰安婦の方が生きていらっしゃいます。従軍慰安婦と原爆被災者の2つが、私にとっての大きな問題です。共に私が強制連行して、その罪を犯したのです。従って私は戦犯の証人として、ここに立って皆さまにそのことを伝え、心に留めていただきたいとお願いする次第でございます。〉
 <2014年8月5日朝刊 慰安婦問題を考える>
 ◇読者のみなさまへ
 吉田清治氏が済州島で慰安婦を強制連行したとする証言は虚偽だと判断し、記事を取り消します。当時、虚偽の証言を見抜けませんでした。済州島を再取材しましたが、証言を裏付ける話は得られませんでした。研究者への取材でも証言の核心部分についての矛盾がいくつも明らかになりました。

☆1991年7月31日 東京朝刊「朝鮮人従軍慰安婦問題、南北共同で補償要求 シンポで合意」
日中戦争太平洋戦争で「女子挺身隊(ていしんたい)」の名で戦場に送られた朝鮮人従軍慰安婦の実態を調査している韓国挺身隊問題対策協議会(16団体、約30万人)の尹貞玉共同代
表〉
<2014年8月5日朝刊 慰安婦問題を考える>
 ◇読者のみなさまへ
 女子挺身隊は、戦時下で女性を軍需工場などに動員した「女子勤労挺身隊」を指し、慰安婦とはまったく別です。当時は、慰安婦問題に関する研究が進んでおらず、記者が参考にした資料などにも慰安婦と挺身隊の混同がみられたことから、誤用しました。

そして植村記者の特報!
1991年8月11日 朝刊(大阪版)
「思いだすと今も涙 元朝鮮人従軍慰安婦 半世紀ぶり思い口を開く」

【ソウル10日=植村隆】日中戦争や第2次大戦の際、「女子挺身隊(ていしんたい)」の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」のうち、1人がソウル市内に生存していることがわかり、「韓国挺身隊問題対策協議会」(尹貞玉・共同代表、16団体約30万人)が聞き取り作業を始めた。同協議会は10日、女性の話を録音したテープを朝日新聞記者に公開した。テープの中で女性は「思い出すと今でも身の毛がよだつ」と語っている。
体験をひた隠しにしてきた彼女らの重い口が、戦後半世紀近くたって、やっと開き始めた。
 尹代表らによると、この女性は68歳で、ソウル市内に1人で住んでいる。最近になって、知人から「体験を伝えるべきだ」と勧められ、「対策協議会」を訪れた。メンバーが聞き始めると、しばらく泣いた後で話し始めたという。
 女性の話によると、中国東北部で生まれ、17歳の時、だまされて慰安婦にされた。200-300人の部隊がいる中国南部の慰安所に連れて行かれた。慰安所は民家を使っていた。5人の朝鮮人女性がおり、1人に1室が与えられた。女性は「春子」(仮名)と日本名を付けられた。一番年上の女性が日本語を話し、将校の相手をしていた。残りの4人が一般の兵士200-300人を受け持ち、毎日3、4人の相手をさせられたという。
 「監禁されて、逃げ出したいという思いしかなかった。相手が来ないように思いつづけた」という。また週に1回は軍医の検診があった。数カ月働かされたが、逃げることができ、戦後になってソウルへ戻った。結婚したが夫や子供も亡くなり、現在は生活保護を受けながら、暮らしている。
 女性は「何とか忘れて過ごしたいが忘れられない。あの時のことを考えると腹が立って涙が止まらない」と訴えている。
 朝鮮人慰安婦は5万人とも8万人ともいわれるが、実態は明らかでない。尹代表らは「この体験は彼女だけのものでなく、あの時代の韓国女性たちの痛みなのです」と話す。9月からは事務所内に、挺身隊犠牲者申告電話を設置する。
 昨年10月には36の女性団体が、挺身隊問題に関して海部首相に公開書簡を出すなど、韓国内でも関心が高まり、11月に「同協議会」が結成された。10日には、「韓国放送公社」(KBS)の討論番組でも、挺身隊問題が特集された。
 <2014年8月5日朝刊 慰安婦問題を考える>
 ◇読者のみなさまへ
 女子挺身隊は、戦時下で女性を軍需工場などに動員した「女子勤労挺身隊」を指し、慰安婦とはまったく別です。当時は、慰安婦問題に関する研究が進んでおらず、記者が参考にした資料などにも慰安婦と挺身隊の混同がみられたことから、誤用しました。
☆1991/8/15 夕刊(大阪版)8面「問う、日本の加害 忘れられた『過去』 終戦の8・15」
☆1991/8/17 朝刊(大阪版)「慰安婦問題考える 在日の女性らが集い 大阪で24日」
☆1991/9/3 朝刊(大阪版)8面「女子工員『エギ』(手紙 女たちの太平洋戦争・韓国)」

☆従軍慰安婦 加害者側から再び証言(女たちの太平洋戦争)
1991.10.10 大阪朝刊 5頁 声 
〈「朝鮮人従軍慰安婦とは何だったのか。いまこそ明らかにし謝罪しておかないと日本は早晩、国際的に指弾されるだろう」。戦時中「山口県労務報国会下関支部」の動員部長として朝鮮人を強制連行した吉田清治さん(78)=千葉県我孫子市=はこう言って目を伏せた。吉田さんは5月22日の本欄で、加害者としての自分について証言したが、改めて胸中を吐露した。その間3時間余。紺色の背広に小柄なからだを包んだ吉田さんは「私ももう年。遺言のつもりで記録しておいてほしい」と繰り返した。(編集委員・井上裕雅)
 従軍慰安婦問題について韓国の女性団体などが実態を明らかにすることなどを日本政府に要求しているが、日本政府側の態度は一向に前進していない。4月にはソウルの日本大使館で女性団体に説明があったが、「手がかりになる証拠はなく、強制連行した事実を認めることも、謝罪することも、蛮行を明らかにすることも、慰霊碑を建てることもできない」というものだった。政府は「民間の業者がそうした方を連れて歩いたとか…」というばかりだ。
 「あれは業者がやったことだ」「調査は不可能」などという理屈が通るはずもありません。
 旧日本軍人、軍属の多くは慰安所と慰安婦のことは知っているはずです。ただ名誉なことではないので口にしないだけでしょう。
  だが、元従軍慰安婦のほとんどは沈黙したままだ。加害者側が口をぬぐい、そして被害者側も過去を語ろうとしないケースが多い。従軍慰安婦とは何だったのかが歴史の闇(やみ)に埋もれる恐れさえある。しかし、吉田さんは、旧軍人、軍属の証言をまつまでもない、慰安婦問題を明らかにすることはできるという。
 南方から復員した軍人に聞いたのですが、彼女たちは負けいくさの中で戦場に放置された。保護なんてありえなかった。当然彼女たちは敵の捕虜になった。日本語を話す女性の集団です。スパイか破壊分子と思われたでしょう。日本軍の情報を得るためにも徹底的に調べられ、朝鮮半島から強制的に連行され、日本兵らの相手をさせられていた女性たちだ、ということがわかったでしょう。それらの調書はアメリカやオーストラリアで公文書として保管されていると思います。東南アジアの人たちもその実態は知っているでしょう。
 各国ともいまそのことを明らかにすることはないでしょうが、人権感覚の鋭い欧米のマスコミが知ったらどうでしょう。黙ってはいません。そうなったら日本政府は国際的に言い逃れができません。
 韓国の反日感情にも火がつきます。外務省は、いますぐにでも事実を認め、謝罪するべきでしょう。
 慰安婦を乗せて南方に向かった御用船を含む船団が潜水艦にやられ、慰安婦と、彼女たちを受けとりにきた兵隊が亡くなったことがあります。彼らは靖国神社にまつられています。
  従軍慰安婦問題は、さらに、国際政治に影響を及ぼす恐れがある、と吉田さんはいう。
 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)とのことです。敗戦当時、旧満州、中国北部にいた慰安婦の多くはいま北朝鮮にいるはずです。北朝鮮が彼女たちのことを調べたかどうかはわかりませんが、その気になれば調べられるでしょう。
 北朝鮮がその問題を暴露したら日本政府はどうするのでしょうか
  それにしても慰安所、慰安婦に関する資料が少ないのは事実だ。「国がその存在をごまかし、今日に至っている」と吉田さんは話す。
 当時、慰安所のことは報道禁止でした。軍事機密だったわけです。国際世論も考慮しなければならない。慰安所など帝国軍人としてもってのほかでした。陸軍士官学校、陸軍大学などを出たエリート参謀たちにしても感性に合わなかったでしょう。でも、民間の業者が運営するのは無理なことでした。
 私は1943年(昭和18年)、1944年(同19年)従軍慰安婦を連行しましたが、「皇軍慰問朝鮮人女子挺身隊員(ていしんたい)動員に関する件」という軍命令がくるわけです。「年齢は20歳以上30歳ぐらい、既婚者も可、妊婦は除く、性病検査実施、勤務は2年間」となっています。
 それを受け取るとすぐ朝鮮半島の道警察(どう・けいさつ)へ「また何人頼む」と電話を入れます。2、3日後、15人から20人ぐらいで連絡船で出張すると、すでに予定表ができています。どこで1人から3人、どこで3人から5人、といったふうに地図に書いてある。1時間ほど打ち合わせをして道警察から各村の近くの警察へ連絡します。連行予定前日の夕方から近くの駅を封鎖し、道路も押さえてしまいます。情報がもれていると困るからです。
 当日は朝8時ごろ幌(ほろ)つきの軍用護送車で出かけます。そして各家から全員外へ出させます。そのころになると村内は「また人さらいがきた」とパニック状態です。悲鳴があがり、犬がほえます。
 私は男性も徴用しましたが、女性を強制連行したことはより罪深いと思います。子供のいた人は敗戦後帰郷してその子たちに会いたかったでしょうが、多くの人たちが日本列島の中などで暮らしていると思います。
 残酷な行為は私がやったのです。そのことを黙ったまま死ぬわけにはいきません。
 謝罪する以外に方法はないでしょう。そうしない限り、今後100年たっても韓国民との友好はありえません。
 従軍慰安婦として強制連行されたのは主として未婚の女性というのが通説だ。が、吉田さんの経験によると、そうではなかったという。既婚者が多かった。だから、ことは余計に悲劇的で重大だと語る。
 私が連行に関与したのは1000人ぐらいですが、多くが人妻だったのではないでしょうか。乳飲み子を抱いた人もいた。3、4歳の子供が若い母親に泣きながらしがみついてもいました。そんな子供たちを近くにいる年とった女性に渡し、若い母親の手をねじ上げ、けったり殴ったりして護送車に乗せるのです。母親を奪われた子供たちはいま40-50代ですよ。当時のことを忘れてはいないでしょう。きっと死ぬまで忘れません。そんな人が何千人も韓国にいるんです。
 彼女たちを連行した日本人として私は「忘れた」「なかったことだ」などとは到底言えません。当時、子供だった人たち同様、私もあの現場だけは忘れることができません。
 ○考える集い・催し次々と 岡山・大阪…各地で広がる関心
 従軍慰安婦についての関心が韓国、日本各地で急速に広がっている。韓国挺(てい)身隊問題対策協議会共同代表の尹貞玉さん、在日韓国・朝鮮人女性、補償問題に取り組んでいる日本人らの努力によるところが大きい。
 9月29日には岡山市内で「戦後補償と朝鮮人従軍慰安婦を考える集い」が開かれ、高木健一弁護士が「アジアに対する戦後補償を」と訴えた。
 同様の集会はこれまで主として東京、大阪などで開かれており、地方都市では珍しい。岡山県評センター女性連絡会などの呼びかけで、市民グループの人たち約250人が参加、韓国のテレビ局が従軍慰安婦問題について制作した「沈黙の恨(ハン)」も観賞した。
 10月22日から約2カ月間、大阪市浪速区のリバティおおさかでは「朝鮮侵略と強制連行展」が開かれる。
 期間中の11月9日には「いま、朝鮮人強制連行を問う!」と題した集会が、12月初めにも同様の集会が予定されている。
 「日本と韓国・朝鮮との友好のため、過去の歴史的事実を明らかにしよう」というのが同展のねらい。11月9日は吉田さんらが参加する予定だ。〉
   <2014年8月5日朝刊 慰安婦問題を考える>
 ◇読者のみなさまへ
 吉田清治氏が済州島で慰安婦を強制連行したとする証言は虚偽だと判断し、記事を取り消します。当時、虚偽の証言を見抜けませんでした。済州島を再取材しましたが、証言を裏付ける話は得られませんでした。研究者への取材でも証言の核心部分についての矛盾がいくつも明らかになりました。
 女子挺身隊は、戦時下で女性を軍需工場などに動員した「女子勤労挺身隊」を指し、慰安婦とはまったく別です。当時は、慰安婦問題に関する研究が進んでおらず、記者が参考にした資料などにも慰安婦と挺身隊の混同がみられたことから、誤用しました。


☆1991/12/10 朝刊5面「ことば 従軍慰安婦」
 <2014年8月5日朝刊 慰安婦問題を考える>
 ◇読者のみなさまへ
 女子挺身隊は、戦時下で女性を軍需工場などに動員した「女子勤労挺身隊」を指し、慰安婦とはまったく別です。当時は、慰安婦問題に関する研究が進んでおらず、記者が参考にした資料などにも慰安婦と挺身隊の混同がみられたことから、誤用しました。


 そして元「慰安婦」が日本政府を訴えて提訴!
朝日新聞はこれについて大量の記事を出稿していますが、疑問点はいろいろありますが事実を報じただけということなのか今回取り消しはしていない。
従軍慰安婦にされた朝鮮女性、半世紀の「恨」提訴へ
1991年12月1日 大阪朝刊 26頁 2社
韓国の元従軍慰安婦ら日本政府を訴え 「人道への罪」問う 東京地裁
1991年12月6日 東京夕刊 1頁 1総 
 
☆〝恨〟の半世紀、決意の訴え「胸痛い、でも話す」元従軍「慰安婦」提訴
1991年12月6日 23頁 1社 
〈「どれだけたくさんの慰安婦が犠牲になったか。私の17歳の青春を返して欲しい」。従軍慰安婦だった金学順(キム・ハクスン)さん(67)はハンカチで涙をぬぐった。6日、日本政府を相手に提訴した韓国の「太平洋戦争犠牲者遺族会」。忘れられた慰安婦、戦傷のいえぬ元軍属や何の補償もない元兵士、戦死通知さえ来ない遺族たち。太平洋戦争開戦から50年、「セイセン(聖戦)」に巻き込まれ、置き去りにされた原告たちの「恨」(ハン)はいまもなお積み重なっている。
 金さんは6日朝、東京・西早稲田の宿舎で「畳を見てつらかった。植民地時代を思い出した」とやつれた表情で、ぽつりと語った。白いチマ・チョゴリ姿。「まだ韓国にはたくさんの慰安婦たちが黙ったままです。夫や子供がいる人はこんな体験を話せるわけはない」。「でも私は話します。胸が痛いけれど……」と話を続けた。
 金さんは1939年春ごろ、平壌で、地区の世話役に「金になる仕事がある」と誘われ、平壌駅から日本の軍人たちと一緒に軍用列車に乗せられた。数えで17歳だったという。着いたのは中国北部の集落で、「テッペキチン」という記憶がある。将校に「いうことを聞け、逃げたら死ぬぞ」と脅され、翌朝から軍人の相手をさせられた。
 金さんも含めて朝鮮人女性は5人。300人ほどの部隊が近くにいたという。
 1カ月半後、部隊と移動。金さんは胸を病み、監視が緩くなった。物売りの朝鮮人業者に「自分も朝鮮人だ。逃がしてほしい」と頼み、夜中に脱出した〉
※提訴では、金学順さんは親(義父)に身売りされて中国に向かったとある。「ハンギョレ新聞」(1991年5月15日)では、「生活が苦しくなった母親によって14歳の時に平壌のあるキーセン検番(置屋)に売られていった。三年間の検番生活を終えた金さんが初めての就職だと思って、検番の義父に連れていかれた所が、華北の日本軍300名余りがいる部隊の前だった」という彼女の証言を報道している。しかし、この記事にはそのことは書かれていない。
※「従軍慰安婦」は、これも造語です。日本軍には「従軍看護婦」「従軍記者」はありましたが、「従軍慰安婦」はありません。「慰安婦」が正しい。

そして以下が、「慰安婦」問題が日韓の外交問題となる契機となった記事です。
1992年1月11日 東京朝刊 1頁 1総 写図有
「慰安所 軍関与示す資料  防衛庁図書館に旧日本軍の通達・日誌 部隊に設置指示」

※これは朝日新聞が一面トップで報じ、これに動転した宮澤喜一首相が、直後の韓国訪問で8回も謝罪したという有名な記事。中央大学の吉見義明教授が、防衛研究所で「軍慰安所従業婦等募集に関する件」という文書などを発見したもので、吉見教授は「軍が関与していたことは明々白々」としているが、この文書そのものは、慰安婦の募集にあたってあっせん業者が不法行為を行うことは軍の威信にかかわるから業者の選定を厳しくせよというもので、軍が関与したといっても、「善意の関与」ともいえるものだ。もともと「慰安婦」への軍の関与そのものを疑っていた人はいない。問題は強制連行があったどうかだが、この記事の最後は根拠もなく次のように結ばれている。
〈●多くは朝鮮人女性
 <従軍慰安婦> 1930年代、中国で日本軍兵士による強姦事件が多発したため、反日感情を抑えるのと性病を防ぐために慰安所を設けた。元軍人や軍医などの証言によると、開設当初から約8割が朝鮮人女性だったといわれる。太平洋戦争に入ると、主として朝鮮人女性を挺身(ていしん)隊の名で強制連行した。その人数は8万とも20万ともいわれる。〉
ところが明確に〈挺身隊の名で強制連行した〉と断じているのにデーターベースでは、なぜか取り消しを行っていない。

☆「歴史から目をそむけまい」(社説)1992年1月12日 東京朝刊 2頁
〈日中戦争や太平洋戦争中に、日本軍人相手に売春行為を強いられた朝鮮人女性などのいわゆる「従軍慰安婦」について、軍当局が募集を監督したり、慰安所の設置などに関与していたことを裏付ける公文書類が発見された。
 「挺身隊(ていしんたい)」の名で勧誘または強制連行され、中国からアジア、太平洋の各地で兵士などの相手をさせられたといわれる朝鮮人慰安婦について、政府はこれまで「民間業者が連れ歩いたようだ」などと、軍や政府の関与を否定する姿勢をとってきた。しかし、この種の施設が日本軍の施策の下に設置されていたことはいわば周知のことであり、今回の資料もその意味では驚くに値しない。
 恥ずかしい体験はだれでも思い出したくないものだ。しかし、戦争という特異な状況のもととはいえ、植民地支配下の朝鮮から多数の人々をかり出し、男性には労務や兵役を、女性には兵士の慰安をという役割を強要したのは、たかだか半世紀前のわが国であった。この事実の重みは私たちが負い続けなければならない。歴史から目をそむけることはできない。
 このところアジア、太平洋各地の戦争犠牲者たちから、日本の戦争責任を問い、補償を求める動きが強まってきた。 昨年暮れ、元従軍慰安婦の3人をはじめ韓国の「太平洋戦争犠牲者遺族会」のメンバーが、日本政府を相手どり、植民地支配と戦争で被った被害の補償として、1人当たり2000万円の支払いを求める訴訟を東京地裁に起こした。また、強制連行された労働者や、徴用された軍人・軍属の遺族たち、BC級戦犯として裁かれた韓国・朝鮮人の提訴も相次いでいる。
 しかし、政府はこうした動きに対して「サンフランシスコ条約や日韓の請求権協定などで、基本的には解決ずみ」との姿勢をとり続けている。
 海部前首相は昨年5月、シンガポールで「多くのアジア・太平洋の人々に耐えがたい苦しみと悲しみをもたらした」とわが国の戦時中の「過ち」を厳しく反省し、謝罪した。反省や謝罪は、積極的な「償い」の行動を伴ってこそ、誠意をもって受け止められるものであろう。
 個々の請求にどう対応するかは別にして、政府にまず求められるのは、例えば強制連行や、従軍慰安婦問題の徹底的な事実調査を進めることである。それも、役所に通知して資料を集めるといった通り一遍のやりかたでなく、関係団体や研究者、さらには外国政府などの協力を求めるなど、踏み込んだ調査が必要だ。16日からの宮沢首相の訪韓では、少なくともそうした前向きの姿勢を望みたい。
 米国が第2次大戦中に強制収容された日系人に対し、1人2万ドルの補償金支払いを開始したのはつい2年前のことである。カナダ政府も同様の措置をとっている。
 米国でその中心になったのは、議会につくられた「日系人の戦時収容に関する委員会」の働きだった。2年間にわたり、全米各地で750人もの証言を聞く公聴会を開いた。その結果、強制収容を「人種的偏見、戦時ヒステリー、政治家の怠慢の産物」と結論づけ、戦時市民強制収容補償法案の可決へと結実した。歴史を直視し、過ちを率直に償おうとした点で、私たちはこれらの国々に見習わなければならない。いずれにせよ、すでにほぼ半世紀。放置すれば資料はますます散逸し、関係者も少なくなる。政府なり、国会なりの、早急な対応が求められる。〉
 <2014年8月5日朝刊 慰安婦問題を考える>
 ◇読者のみなさまへ
 女子挺身隊は、戦時下で女性を軍需工場などに動員した「女子勤労挺身隊」を指し、慰安婦とはまったく別です。当時は、慰安婦問題に関する研究が進んでおらず、記者が参考にした資料などにも慰安婦と挺身隊の混同がみられたことから、誤用しました。
※こちらは訂正していました。ウソ報道をしておいて〈たかだか半世紀前のわが国であった。この事実の重みは私たちが負い続けなければならない。歴史から目をそむけることはできない〉ですか。

☆従軍慰安婦(窓・論説委員室から)
1992.01.23 東京夕刊 1頁 1総 (全948字) 
 










































〈吉田清治さんは、昭和17年、朝鮮人を徴用するために設けられた「山口県労務報国会下関支の動員部長になった。
 以後3年間、強制連行した朝鮮人の数は男女約6000人にのぼるという。
 韓国の報道機関から「もし、わが国の国会で証言してほしいという要請があれば、どうしますか」と聞かれたとき、こう答えた。
 「私は最も罪深いことをしました。証言しろといわれれば、韓国の国民、国会に対して謝罪し、そして何でも答える義務がある。その立場を自覚していますから」 記憶のなかで、特に心が痛むのは従軍慰安婦の強制連行だ。
吉田さんと部下、10人か15人が朝鮮半島に出張する。総督府の50人、あるいは100人の警官といっしょになって村を包囲し、女性を道路に追い出す。木剣を振るって若い女性を殴り、けり、トラックに詰め込む。
 1つの村から3人、10人と連行して警察の留置所に入れておき、予定の100人、200人になれば、下関に運ぶ。女性たちは陸軍の営庭で軍属の手に渡り、前線へ送られていった。吉田さんらが連行した女性は、少なくみても950人はいた。
 「国家権力が警察を使い、植民地の女性を絶対に逃げられない状態で誘拐し、戦場に運び、1年2年と監禁し、集団強姦(ごうかん)し、そして日本軍が退却する時には戦場に放置した。私が強制連行した朝鮮人のうち、男性の半分、女性の全部が死んだと思います」
 吉田さんは78歳である。「遺言として記録を残しておきたい」と、60歳を過ぎてから、体験を書き、話してきた。
 東京に住んでいたころは時折、旧軍人の団体や右翼が自宅に押しかけてきて、大声を出したりした。近所の人が驚いて110番したこともある。
 マスコミに吉田さんの名前が出れば迷惑がかかるのではないか。それが心配になってたずねると、吉田さんは腹がすわっているのだろう、明るい声で「いえいえ、もうかまいません」といった。〈畠〉〉
 <2014年8月5日朝刊 慰安婦問題を考える>
 ◇読者のみなさまへ
 吉田清治氏が済州島で慰安婦を強制連行したとする証言は虚偽だと判断し、記事を取り消します。当時、虚偽の証言を見抜けませんでした。済州島を再取材しましたが、証言を裏付ける話は得られませんでした。研究者への取材でも証言の核心部分についての矛盾がいくつも明らかになりました。
  ※こうした朝日新聞の「慰安婦」強制連行報道に対しておかしいと感じる読者も多かったのでしょう。読者から問い合わせや抗議が殺到した。それに対して論説委員がこんなコラムを書いて、〈知りたくない、信じたくないことがある。だが、その思いと格闘しないことには、歴史は残せない〉と、逆に読者を戒めています。

 ☆「歴史のために(窓・論説委員室から)」
1992.03.03 東京夕刊 1頁 1総 
〈従軍慰安婦を強制連行...した吉田清治さんの告白が、この欄(1月23日付)で紹介された。その後、たくさんの投書をいただいた。
 去年、本紙と朝日放送が協力して進めた年間企画「女たちの太平洋戦争」にも、投書が相次いだ。担当者と話していて気づいたことがある。それは、日本軍の残虐行為はなかったとか、公表するなとかいう人の論拠には、共通する型がある、ということだ。
 (1)そんなことは見たことも聞いたこともない。軍律、兵隊の心情にてらしても、それはありえない。もし事実だとしても、それは例外で、一般化するのは不当である。なかには自己顕示欲や誇張癖のために、ゆがめられた話もあるだろう。
 (2)自虐的に自国の歴史を語るな。子孫たちが祖国への誇りを失ってしまう。それに、戦争が庶民を犠牲にすることは分かりきっている。過去を語っても無益。早く忘れよう。
 (3)日本軍の残虐行為を知ったら、遺族は、わが父、兄弟も加わったかと苦しむだろう。そのつらさを考えよ。また、戦友は祖国のために命を捨てた。英霊を冒涜(ぼうとく)するな。
 以上のように主張したい人々の気持ちはよくわかる。だれにも理屈だけでは動きたくない情というものがある。しかし、それだけでいいのか。自問せざるをえない。
 朝日放送が投稿をもとにドラマを制作し、昨年末、朝日系列テレビ各局が放送した。劇中、高等女学校の生徒たちが兵隊の褌(ふんどし)を洗う場面があった。たちまち、抗議の手紙、電話である。
 「帝国軍人が、女学生に褌を洗わせるなどということは、断じてない」
 大阪府下に住む投稿者が、母校に保存されていた学校日誌で記憶を確認した。
 「陸軍需品支廠(しょう)ヨリ依頼ノ軍用褌、洗濯作業開始」
 知りたくない、信じたくないことがある。だが、その思いと格闘しないことには、歴史は残せない。 <畠>〉
 <2014年8月5日朝刊 慰安婦問題を考える>
 ◇読者のみなさまへ
 吉田清治氏が済州島で慰安婦を強制連行したとする証言は虚偽だと判断し、記事を取り消します。当時、虚偽の証言を見抜けませんでした。済州島を再取材しましたが、証言を裏付ける話は得られませんでした。研究者への取材でも証言の核心部分についての矛盾がいくつも明らかになりました。


◇秦郁彦氏が慰安婦狩り証言は疑わしいとする済州島での調査結果を発表産経新聞が1992年4月30日付で大きく報道。

それでも朝日新聞は、、、、
1992/5/24朝刊30面「慰安婦問題 今こそ自ら謝りたい 連行の証言者、7月訪韓」
1992/8/13朝刊26面「元慰安婦に謝罪 ソウルで吉田さん」

そして、とうとう
【◇河野談話発出】 1993年(平成5)8月4日 宮澤政権が政権を失う直前のことでした!
宮沢喜一内閣が退陣し、細川護煕氏が首班の非自民6党連立政権が発足する直前だった。
 

【◇アジア女性基金(1995年ー2007)】 韓国、フィリピン、韓国、台湾の285人に約5億8000万円を支給した(償い金1人320-500万円)。インドネシアは個人支給ではなく高齢者福祉施設を建設。
※理事長は「自社さ」政権で首相を務めた村山富市である。

☆朝日新聞は1997年(平成9)3月31日になって、ようやく吉田証言に疑問を提起、〈従軍慰安婦 消せない事実〉特集を掲載した。
しかし訂正も謝罪もせず、〈(吉田氏の)著述を裏付ける証言は出ておらず、真偽は確認できない〉〈吉田氏は「関係者の証言などデータの提出を拒んでいる」〉と報じただけだった。
そして〈強制〉を〈強制連行〉に限定する理由はないなどと主張した。このため、声の欄には、1000人も「慰安婦」狩りがあったとテレビで元軍人(これは間違い、吉田清治は軍人ではない)のに、なぜその声を無視するのかとの投書もあった!
☆読売新聞は2007年(平成19)3月27日 〈吉田証言は信ぴょう性が否定された〉
当然のことだが、吉田清治の証言は韓国と国内左翼勢力によって日本攻撃に利用された。
その結果、
韓国、国連人権委員会報告、米下院が証拠採用
河野談話とともに吉田証言は海外の日本叩きにも利用されました!
◇1992年7月 韓国の「日帝下軍隊慰安婦実態調査報告書」が吉田の著書を証拠採用
◇国連人権委員会のクマラスワミ報告1996年(平成8)での証拠に採用
「強制連行を行った一人である吉田清治は戦時中の体験を書いた中で、国家総動員法の一部である国民勤労報告会の下で、他の朝鮮人とともに1000人もの女性を『慰安婦』として連行した奴隷狩りに加わっていたことを告白している。
◇米国下院対日謝罪決議案の報告書における証拠採用
2007年(平成19)7月31日に米下院で採択されたに対日非難決議(マイクホンダ決議)を審議する際の資料とされた同議会調査局の報告書に「吉田証言」が明記されていた。
日本側の調査と報告を受けて、その後、改訂版では「吉田証言」が削除されたが決議案審議のための公聴会ででは吉田証言に基づいた資料が判断材料とされていた。

2010年(平成22)10月 米国ニュージャージー州に「慰安婦」碑出現
碑文は〈1920年から45年まで日本帝国軍に拉致された「慰安婦」として知られる20万人以上の女性や症状のために、彼女たちは誰もが認識すべき人権侵害に耐えた。人道に対する罪を決して忘れないようにしよう〉
2013年7月産経
碑文1〈私は日本軍の性奴隷でした。乱れた髪型は、少女が大日本帝国陸軍によって、住んでいた家からさらわれたことを象徴しています。肩に止まった鳥はわたしたちと犠牲者の絆を象徴しています〉碑文2〈1923年から1945年にかけて、20万人以上のアジア人とオランダ人女性たちが、家からさらわれ、大日本帝国軍によって強制的に性奴隷にされた。日本政府に歴史的な責任の受け入れを求める〉
2011年12月(平成23) ソウルの日本大使館の玄関前に韓国挺身隊問題対策協議会により「慰安婦」像が設置される



そして今回、2014年(平成26)、朝日新聞が掲載された特集がこれです。
よく読むと吉田証言のみ「取り消しています」が謝罪はしていない、ですね。 

☆※朝日新聞の8月5日付一面に掲載された特集
〈慰安婦問題の本質直視を 編集担当 杉浦信之〉
 日韓関係はかつてないほど冷え込んでいます。混迷の色を濃くしている理由の一つが、慰安婦問題をめぐる両国の溝です。
 この問題は1990年代初めにクローズアップされ、元慰安婦が名乗り出たのをきっかけに議論や研究が進みました。戦争の時代に、軍の関与の下でアジア各地に慰安所が作られ、女性の尊厳と名誉が深く傷つけられた実態が次第に明らかになりました。
 それから20年余、日本軍の関与を認めて謝罪した「河野談話」の見直しなどの動きが韓国内の反発を招いています。韓国側も、日本政府がこれまで示してきた反省やおわびの気持ちを受け入れず、かたくなな態度を崩そうとしません。
 慰安婦問題が政治問題化する中で、安倍政権は河野談話の作成過程を検証し、報告書を6月に発表しました。一部の論壇やネット上には、「慰安婦問題は朝日新聞の捏造(ねつぞう)だ」といういわれなき批判が起きています。しかも、元慰安婦の記事を書いた元朝日新聞記者が名指しで中傷される事態になっています。読者の皆様からは「本当か」「なぜ反論しない」と問い合わせが寄せられるようになりました。
 私たちは慰安婦問題の報道を振り返り、今日と明日の紙面で特集します。読者への説明責任を果たすことが、未来に向けた新たな議論を始める一歩となると考えるからです。97年3月にも慰安婦問題の特集をしましたが、その後の研究の成果も踏まえて論点を整理しました。
 慰安婦問題に光が当たり始めた90年代初め、研究は進んでいませんでした。私たちは元慰安婦の証言や少ない資料をもとに記事を書き続けました。そうして報じた記事の一部に、事実関係の誤りがあったことがわかりました。問題の全体像がわからない段階で起きた誤りですが、裏付け取材が不十分だった点は反省します。似たような誤りは当時、国内の他のメディアや韓国メディアの記事にもありました。
 こうした一部の不正確な報道が、慰安婦問題の理解を混乱させている、との指摘もあります。しかし、そのことを理由とした「慰安婦問題は捏造」という主張や「元慰安婦に謝る理由はない」といった議論には決して同意できません。
 被害者を「売春婦」などとおとしめることで自国の名誉を守ろうとする一部の論調が、日韓両国のナショナリズムを刺激し、問題をこじらせる原因を作っているからです。見たくない過去から目を背け、感情的対立をあおる内向きの言論が広がっていることを危惧します。
 戦時中、日本軍兵士らの性の相手を強いられた女性がいた事実を消すことはできません。慰安婦として自由を奪われ、女性としての尊厳を踏みにじられたことが問題の本質なのです。
 90年代、ボスニア紛争での民兵による強姦(ごうかん)事件に国際社会の注目が集まりました。戦時下での女性に対する性暴力をどう考えるかということは、今では国際的に女性の人権問題という文脈でとらえられています。慰安婦問題はこうした今日的なテーマにもつながるのです。
 「過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝えるとともに、いわれなき暴力など女性の名誉と尊厳に関わる諸問題にも積極的に取り組んでいかなければならないと考えております」
 官民一体で作られた「アジア女性基金」が元慰安婦に償い金を渡す際、歴代首相はこんな一節も記した手紙を添えました。
 歴史認識をめぐる対立を超え、和解へ向けて歩を進めようとする政治の意思を感じます。
 来年は戦後70年、日韓国交正常化50年の節目を迎えますが、東アジアの安全保障環境は不安定さを増しています。隣国と未来志向の安定した関係を築くには慰安婦問題は避けて通れない課題の一つです。私たちはこれからも変わらない姿勢でこの問題を報じ続けていきます。
     ◇
 5日の特集では、慰安婦問題とは何かを解説し、90年代の報道への読者の疑問に答えます。6日は、この問題で揺れる日韓関係の四半世紀を振り返るとともに、慰安婦問題をどう考えるかを専門家に語ってもらいます。
中面の特集と翌日8月6日の特集はこちら。

朝日新聞の「慰安婦」報道の経緯を追ってきましたが、世界中で「性奴隷」と定着するにいたったこの問題を焚きつけたのが朝日新聞であることは明明白白です。それにしてもこの期に及んで朝日新聞の〈戦時中、日本軍兵士らの性の相手を強いられた女性がいたことを消すことはできません。「慰安婦」として自由が奪われ、女性としての尊厳を踏みにじられたことが問題の本質〉などという論点ずらしは、あきれ果てます。ここまで日本の信用を傷つけておいてなお居直るつもりでしょうか。戦場で女性が被害にあってきたのは事実ですが、それはあらゆる戦場でそうてあって、なぜ日本だけが叩かれなくてはならないのか。この問題の背景にあるのは、東京裁判に端を発した自虐と贖罪の歴史観です。日本は侵略戦争を行った悪い国との洗脳がこうした朝日新聞のウソを簡単に受け入れてしまうことになってしまうのです。「南京大虐殺」も「靖国参拝」もそうです。これを契機に政府も国会も正面からこの問題に取り組むことを求めます。日本人が日本人の手でこの問題に決着をつけない限り、諸外国に広まった「性奴隷」のウソを払しょくすることは不可能でしょう。

吉田証言を引用した著作物。家永三郎『戦争責任』(岩波書店)、佐藤和秀『潮』1992年3月、鈴木裕子『朝鮮人従軍慰安婦』(岩波ブックレット)、杉井静子『文化評論』(1992年4月)、日弁連国際人権部会報告「日本の戦後処理を問うシンポジウム」(1992年7月)、高木健一『従軍慰安婦と戦後補償』(三一書房)、倉橋正直『従軍慰安婦問題の歴史的研究』(共栄書房1994年)、幣原広『法学セミナー』(1997年)曽根一夫『元下級兵士が体験見聞した従軍慰安婦』(白石書店1993)
ー『慰安婦と戦場の性』より。


参考までに月刊WiLL編集長の花田さん出演の読売テレビ番組(8月9日)をアップします。

参考サイト    東アジア黙示録
                   日本人なら知っておきたい事       
        日本報道検証機構
        Wikipedia 
        朝日新聞データーベース