2019年4月26日金曜日

迷走する安倍政権

迷走する安倍政権 こんな保守なら保守をやめたい!
「時事評論石川」2019年(平成31年)3月20日 ジャーナリスト 山際澄夫  

 第二次安倍政権が発足して、七年目に入っている。第一次政権を含む安倍首相の在任期間は、今年十一月には戦前の桂太郎を上回り、憲政史上最長となる空前の長期政権である。首相の人気はなお高いが、その成果は満足できるものではない。最大の目標であったはずの憲法改正も拉致事件解決もめどは立たず、最早、誰も首相の靖国参拝を期待していない。四島を日本固有の領土とも言えぬロシアとの北方領土返還交渉や移民法(改正入管法)の強行成立を見て、こんな保守なら保守をやめたいと思ったほどだ。期待が大きかっただけに失望も大きい。  
 安倍首相の発言に驚かされることが多くなった。 今の国会でも、日中関係について、「完全に正常な軌道へと戻った。昨年秋の訪中で習近平国家主席と互いに脅威とならないことを確認した」(参院予算委)と語っていたのに耳を疑った。  日中間では、このところ「関係改善」がキーワードになっている。これも年内に習主席の訪日を控えて、中国へのシグナルなのだろうが、尖閣諸島では日常的に日本の主権が脅かされ、日本人が理由なくスパイ容疑で拘束されているのにどうして「完全に正常な軌道」「互いに脅威にならない」などと言えるのか。 これではまるで、十九兆円もの巨額の国防費、南シナ海のスプラトリーの軍事要塞化も、チベット、ウイグル弾圧も、台湾への軍事力での威嚇もすべて認めているかのようではないか。それを外交的な成果を誇るかのように言う軽々しさに呆れたのである。  
 安倍政権ではいつのまにか、一帯一路への協力も日本側から進んで口にするようになっている。中国のような、民主主義も法の支配もなく、軍事力で周辺国を恫喝する国に進んで友好のポーズをとる卑屈さは、靖国神社への参拝すら長く行っていないことにも見て取れる。  
 首相は第一次安倍政権で靖国参拝をしなかったことを「痛恨の極み」と語っていた。いわば参拝は真正保守政治家としての国民との誓約である。ところが政権奪還から一年後に一度参拝しただけでそれ以降参拝していない。最近では閣僚すら参拝しない。自民党がいまでも政権の正当性を強調するのに引き合いに出す、あの民主党政権でも、菅政権を除いて閣僚が参拝していたのだから情けないと言うしかない。 自民党に稲田朋美氏が会長を務める、「伝統と創造の会」という保守グループがあるが、かつては、首相に参拝を陳情したこともあるのに安倍首相にはなぜか求めない。安倍首相には求めなかったのだから、もう自民党は、安倍政権後の首相にも参拝を求める資格を失っているというべきだろう。
 無残なのは、「遺憾」、「毅然と対応していく」とうわごとのように繰り返す対韓外交も同じだ。 日本が、口先ばかりなのは、歴史戦で敗北を繰り返し、韓国に戦う前から敗れているからだ。  
 日本ほどアジアの独立と発展に貢献した国はない、それは戦前も戦後も変わらない。韓国に対しては、過去、合法的に併合し、日本統治としたが、それに反対した国はなかった。金完燮が『親日派のための弁明』に〈露や英、仏の代わりに日本が朝鮮の支配者になったのは、実に幸運だった、ついに朝鮮において文明開化の時代が幕を開けた」と述べているとおりである。このため、日韓条約でも「植民地支配」を最後まで認めていない。ところが、その後、「植民地支配と侵略」を認めて謝罪までしたのが村山談話である。 これを明確に意識して登場したのが安倍首相である。首相は、政権奪還前に、慰安婦の強制性を認めた河野談話とともに「政権を奪還したらそんなしがらみは捨てて再スタートできる。もう村山談話、河野談話に縛られることはない」と明確に語っていた。
 ところが、今、外務省のサイトには、両談話は残っているし、両談話を無力化すると宣伝された、戦後七十年の安倍談話は、〈(先の大戦における行いについて痛切な反省と心からのおわびの気持ちを表明してきた)歴代内閣の立場は、今後も揺るぎない〉とはっきり書かれている。  
 両談話の無力化に失敗しただけではない。慰安婦問題では、「完全かつ最終的に解決」と主張していたのに、韓国側の蒸し返しにつきあって「不可逆的に解決」と修飾語をつけて改めて謝罪し、税金から償い金まで支出したのが、日韓合意(2015)である。 税金からの償い金の支出は、これまた民主党政権が行わなかったことである。 徴用工問題にも落ち度がある。  
 長崎の軍艦島などの世界遺産への登録(2015)をめぐって、旧徴用工は「意思に反して動員した」と認めて、これを広報すると約束したのも日本政府である。 安倍政権の一丁目一番地は拉致問題である。 そもそも安倍政権は、拉致事件に対する国民の怒りが沸騰しなければ誕生していない政権だからである。 だが、拉致被害者の奪還は一ミリも進んでいない。首相はもともと、圧力によって「北朝鮮の姿勢を変えさせる」としていたが、米朝会談の結果、「相互不信の殻を破り、拉致、核、ミサイルの問題を解決し、不幸な過去を清算して、北朝鮮との国交正常化を目指す」と姿勢を一変させた。 そして、もともとは批判的だった、植民地支配を前提に、経済協力を約束する日朝平壌宣言を基礎にすると言いだしている。まだ、相手が交渉に乗ってきたわけではないのに、北の独裁者の寛大なこころにすがろうとしているのである。  
 いったいどこが、「美しい国」なのか、「日本を取り戻す」なのか。 想像してみてほしい。さらわれた多数の国民も救えず、友達がならず者国家に脅されていても手を差し伸べることもしないのが日本である。  
 安倍首相は、北朝鮮危機を「国難」と述べた。核、ミサイルに加えて拉致問題まであるのだから、国難は当然だろう。だが、それなら、なぜ、自ら抑止力を持とうとせず、さらわれた拉致被害者を自ら救出しようとしないのか。国難なのに相も変わらず、「平和憲法」、「専守防衛」、「非核三原則」で、国防も拉致も米国任せでは話しにならない。 二度目の米朝首脳会談の後、首相はトランプ大統領を「全面的に支持する」と語ったが、どう転んでも米国支持なのが今の日本だ。西尾幹二氏が、産経新聞の正論欄に、〈1945年までの日本人は、例え敗北しても、自分で戦争を始め、自分で敗れたのだ。今の日本人より余程上等である〉と、対米従属で自立できない日本を叱っていたが、その通りだろう。  
 同胞を奪還するために憲法が邪魔なら改正すべきだろう。 「この憲法では国民も領土も守れない」と訴えるべきである。ところが、選挙の街頭演説で憲法を取り上げ、正面からも国民に訴えることはしてこなかった。国会でも「憲法調査会で議論してもらいたい」と論争に進んで応じようとはしない。 その改憲案も、九条を改正するにあたって、「戦力不保持」と「交戦権の否定」を盛り込んだ九条二項を残して、三項に自衛隊の存在を明記するだけだというのだから、志が低い。  
 なぜこうなっているかというと、公明党への配慮からだという。自民党は、いつから政権維持政党に成り下がってしまったのか。これでは、国民の間で憲法改正の機運がちっとも盛り上がらないのも無理はない。 国民の圧倒的な支持を得て、長期政権を実現した安倍政権だが、その現実は、「戦後体制からの脱却」ではなく、「戦後体制の完成」に向かっている、と言えば言い過ぎだろうか。